blaine fontana

作品にはどれにも彼独自のユニークな人物や生き物「Templings(テンプリングス)」(-Temple(寺)とBeing(生き物)を合わせた造語-) が描かれている。それらのキャラクターと共に、グラフィックカルな風景、人物、実際の日付を表す数字記号や、制作中の思考を書き留めた作品のテーマやコンセプト共に埋められていき、平面、オブジェ、インスタレーションといった幅広い表現手段へと展開されてゆく。特に、北西インディアンの民間伝承や絵画的形象、詩人の散文や逸話、または動物の種別などの豊かなモチーフとユニークなテクスチャを含む背景が、それぞれの作品に描かれた情報と色彩を魅力的にさせていくだろう。

Q&A

まずあなたのバックグラウンドを教えてもらえますか?

37 歳、既婚、犬2 匹、アメリカオレゴン州ポートランド在住、アメリカ北西部大好き。芸術の学士号持ち、ワシントン州のピュージェット湾生まれ、熱心な園芸愛好家であり旅行家、盆栽熱狂者。バイク6 台持ち、全てにおいて本物が好き、食べること、寝ること、息すること、アート、デザインも好き。僕のプロとしてのキャリアは十年前に最初で最後のアートディレクターとしての仕事をクビになった後に始まりました。10年経っても正式なトレーニングを受けずに仕事をしています。自分のメインの学部はは商業イラストで、最低限なことしかやっていません。卒業後に5 回イラストの個展を行いました。ですが1000 を超す芸術、造形、デザイン、家具、イラスト、本、壁画作品、公演を行ってきました。一番の喜びは今までの作業の満足と痛みを親友でありスタジオパートナーでもある妻と共に分かち合うことです。彼女とは彼女が共同設立したデザイン仲介の代理店で出会いました。そのころ僕は芸術学校の3 年生でインターンとして彼女のもとで働いていました。最近ではスタジオで過ごすほとんどの時間は個人的なペイントの依頼や販売、ZERO+ 出版の高級芸術書籍、Wordpress のコンサルティング、ローカルグラフィックアイデンティティーシステム、環境デザイン、ワークショップや講演での芸術指導を行っています。

アーティストとして活動し始めたのは何歳ごろですか?またそのきっかけは?

12 歳ぐらいの時にどこからともなく。Frank Miller のグラフィックノベル代表作Batman: Dark Knight を読んで自分のイメージのスタントアクションの流れを描くストーリーボード用に彼のスタイルをコピーし始めました。その頃は両親のVHS カメラを使って自作のアクションムービーを記録するために本当に危険なスタントをしていたのでどのようにして精巧で派手なシーンを描くのかを学ぶ必要がありました。こんな男の子っぽい遊びをしていた友達と育つ中でSunday Seattle 新聞にあった何人かの地元のグラフィティーアーティストの特集を見つけました。それからはそんな遊びも終わり、8 年間ほど完全にグラフィティーにのめりこみました。それが僕の人生であり、ファミリーであり、僕の回りの環境であり、創造的な表現方法でした。結果的に、僕が高校3 年生の時に近所の職業としての商業アートを勉強する学校に通うことを許可されました。17歳という多感な時期に写真、デザイン、イラストなどを勉強することができました。卒業後は22歳くらいになるまでグラフィティーライターとしての向上心を持ち続けていました。6回捕まって、最後は大学の1学期の時のロサンゼルスでした。
それ以上自分の学業を危うくすることはできませんでした、特に母が祖父の遺産を使ってしてくれた自分への投資を。

アートは人々に影響をもたらすと思いますか?もしそうであればどんな事だと思いますか?

アートが人々に影響するかをあえて言うなら、アートは命を救う。これは理論でも何でもなくて、実際に僕の身に何度も起きていることです。2006年にサンフランシスコでものすごいパワフルなメールをある若い女性から受け取りました。ある朝彼女はカフェを出て家に着いたら死のうと決めていたそうです。彼女はたまたまHaight-Ashbury にある高台の広場のギャラリーに入りました。そこには僕が初めて出した本が窓のところに飾られていました。その本が彼女の目にとまり(ちらっと目に入っただけですが)、購入して家に帰りました。彼女はその本をしばらく読んだ後、人間のものすごいパワフルな可能性、そしてこれ以上ないどん底の状況で人間の創造性がどのようにして一番輝くのかに気付かされました。そこで彼女は考えが変わりました。アートは永久に最も破壊的な力の一つになりえるのです。

作品を作る際にいつも心がけていることはありますか?

誰かが無意識の中で、または直接僕に「これどうやったの?」と質問するときに彼らが僕の創造力が伝わっているか気になります。 それには3 つの理由があります。初めに、僕はいつもいくつかの表現( 演出) を早い段階で意識的に残します。僕のアートを見るとすべての工程の流れがペイントに表現されています。二つ目は、風格を持って苦労してないように見えるものを創造することにあこがれるけどとても難しいということ。最後に特にデザインにおいては目に見えないものが残ります。良いデザインは透明感があって訴えかけるものがありますが、アートに慣れていない目にはそうは映らないし本人にはなぜかはわかりません。それに対してヒドいデザインは意思がなく、悪趣味で、感じが悪く、時代遅れに見える。これが最高の作品を作る上で「less is more」( 素朴なものにほどたくさんのことがある)という美学とうまくやっていく方法だと思います。

今回坩堝は「日本」をイメージした作品を依頼していますが、どのような作品作りをしましたか?

僕の鯉の表現は2005 年からの作品の中で象徴的な存在になっています。長い間これを描いていなかったので今回この尊ばれている日本の仲間であり神話的な生き物を作品に入れたのはちょうどよかったと思います。僕にとって何が特別だったかと言えば、長い間鯉を描いていなかったこと、その間に僕のペイントの技術がどれだけ上達したかということで今までに描いてきた全ての鯉を比較できたことです。鯉は僕にとってはタトゥーを入れる上でそれ自体から、そしてこの魚にまつわる言い伝えからインスパイアされる主要な力のシンボルです。

最後に坩堝に参加しようと決めた理由を教えてください。

単純に…MHAK! 彼は素晴らしくて、影響力を持っていて、謙虚な男です。彼のことを僕の友達であり仕事仲間と呼べることをうれしく思います。さらにRUTSUBOの作品はとても高級志向で想像力に富んでいて僕のイメージにうまくフィットします。このプロジェクトに参加できたことは本当に光栄です。。